母の呪縛から解放されるまでの歩み
はじめに:毒親の影響と私の物語
私は一人っ子として母親と二人で育ちました。
両親が私の小学生時代に離婚し、それからというもの、母親の過干渉が私の人生に大きな影を落としていきました。
今振り返ると、母親は「毒親」だったのだと感じます。
しかし当時は、それが普通だと思っていました。
この記事では、私が母親に対する無意識の依存を乗り越え、徐々に自分自身を取り戻す過程についてお話しします。
目次
母親との絆と呪縛:幼少期からの影響
父親の不在と過干渉の始まり
小学生の頃、両親は離婚し、父親は再婚のため家を出ていきました。
私は一人っ子だったため、母親と二人だけの生活が始まりました。
父親がいなくなったことで、母親の過干渉が一気に強まりました。
「やることすべてを管理される」、それが私の日常となりました。
例えば、学校での成績が思わしくないと、厳しく叱られたり、家庭教師に頼んでも「自分勝手だ」と言われ断られたり、何をするにも母親の干渉がつきまといました。
自己肯定感の欠如
母親は私の決断や意見をことごとく否定し、母親の考えに従うことが求められました。
その結果、自分自身の意見を言うことや、自分で決断する力が育ちませんでした。
時には自分の存在意義すら疑い、子供ながらに「自分は何のために生きているのか?」と悩む日々が続きました。
壁に頭をぶつける行動など、自分を痛めつけることでしか感情を表現できなかった幼少期がありました。
母親との共依存:成人後のマザコン化
大人になっても続く過干渉
20代になって正社員として働き始めましたが、母親の過干渉は続きました。
特に目立ったのは、母親が作ってくれたお弁当を毎日持たされることでした。
当時は恥ずかしさを感じることが多く、職場で同僚から「誰が作ったの?」と聞かれる度に、「母親」と答えるのが辛かったです。
同僚たちは自分で弁当を作るか、外食で済ませている中で、私は母親の弁当を食べていました。
母親の言いなりから抜け出せない
母親は、私が独り立ちしようとすると「無駄だ」「失敗する」といった否定的な言葉を浴びせ、逆らうとヒステリックに怒鳴り散らされました。
結果として私は反抗することを諦め、母親の言いなりになってしまいました。
母親が満足する行動を取るたび、母親は機嫌が良くなるため、私はその繰り返しに従うようになりました。
この時点で、私は無意識のうちに「マザコン」としての自覚が芽生え始めていたのかもしれません。
自分を取り戻すための第一歩
ゲーム実況から学んだ自分のペース
40代に入ってから、私はゲーム実況に挑戦し、一時期は少額ながら収益を得ることができました。
しかし、次第にその取り組み自体がストレスとなり、結局すべての機材を手放すことにしました。
この経験から学んだのは、「自分に合ったペースで生きることの大切さ」です。
母親の期待や指示に従うのではなく、自分が心地よく感じる生き方を見つけることが、自己解放への第一歩だと気づきました。
母親との距離を取る
母親の影響力から抜け出すために、私は徐々に距離を置くことを意識しました。
これまでは母親の言葉に縛られ、行動を制限されていましたが、勇気を出して少しずつ自分の意志で動くようにしました。
簡単なことではありませんが、小さな成功体験を積み重ねることで、自信が芽生え始めました。
まとめ:過去から未来へ、前を向いて進む
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私の過去は、母親の過干渉に苦しみ、マザコンというレッテルを自ら感じる日々でした。
しかし、そこから逃げ出すのではなく、少しずつ自分自身と向き合い、前進していくことが大切だと学びました。
このブログでは、私が経験した困難を共有し、同じような状況にある方々が「自分も頑張れる」と感じていただけるようなコンテンツを発信していきます。
困難を抱えながらも、必ず希望の光は見えてくるはずです。
これからも、自分らしく生き直すための道を模索し続けます。
読者の皆さんへ
このブログを通じて、同じように「毒親」「過干渉」「依存」などに苦しんでいる方々が、少しでも元気になれるような記事をお届けしたいと考えています。
私の体験談が少しでも励みになれば幸いです。
ブログの内容は、これまでの個人的な体験に基づくものですが、読者が共感できるように工夫しました。
親子関係や自己肯定感に悩む方々が、自分自身を取り戻し、より良い未来に向かって進んでいける力になれればと思っています。