毒親

毒親は理解されない存在だと感じることを体験を交えて書きます

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小学生時代に両親が離婚しました。父親は浮気相手と再婚するために出ていきました。私は一人っ子なので、母親と二人暮らしです。

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今まで生きてきて母親に物事を理解されることないまま、母親の操られるままに生きてきました。その半生について書いていきたいと思います。

会社のストレス診断


私は一人っ子なので母親と二人暮らしになりました。

数年後、父親と二人で会いました。母親と離婚した理由を聞くと、自己中心的で自分の事しか考えれない人だから離婚したと言うのです。

 

私はもっともな意見だと思いました。母親は自己中心的な人なのです。

両親が離婚してから母親は私に命令ばかりするようになりました。

 

「ああしなさい」「こうしなさい」と命令ばかりするのです。毒親に育てられてしまい、私は次第に生きる気力を失っていきました。

 

社会人になっても仕事に熱心になれることもなく、上司や先輩から怒られてばかりいました。

数年後、会社のストレス診断がありました。ストレス濃度が高いとのことで産業医との面談をするように会社から指示されました。

 

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毒親育ちの男性がマザコンと感じる理由


健常な家庭、父親と母親がいるところと比べると、私は明らかに毒親に育てられたどうしようもない人間だと感じることがあります。特に会社に行くとき、いつも母親から弁当を持たされます。

 

20代を過ぎた男性が母親の作ってもらった弁当を食べていると言う劣等感を持っていました。

同僚は自分で弁当を作る人もいれば、外食で済ます人が多いです。

 

私の弁当を見て、いつも、「誰が作ったの?」と聞かれます。私は「お母さん」と答えると、相手はちょっと引き気味な雰囲気になってしまいます。

「おいしそうだね」って言われますけど、私としては、同僚や先輩と食事したい気持ちがあります。

 

しかし、母親は節約のためと言って、昼ごはんの弁当を持たせるのです。

同僚は、「捨ててしまえば??」と言われたこともありますが、食べ物を粗末にできないので、捨てたことはありません。

 

むしろ、昼ご飯は同僚と食べに行って、夕食に弁当を食べて、帰ってきてさらに夕食を食べたこともあります。毒親育ちのマザコンとしてのレッテルを貼られている気持ちが付きまとい、男としての自信はありませんでした。

 

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友達に選ばれようとしている自分がいる


小学生時代に両親が離婚しました。父親は浮気していました。

父親は浮気相手と再婚するために出ていきました。自宅の雰囲気が一気に暗くなりました。

 

不穏な空気が流れるようになりました。明るい家庭が暗くなっていくのを肌で感じました。

不穏な空気の源は母親からでした。今から考えたら母親は毒親でした。

 

私は両親が離婚するまでは友達が多かったです。誰にでも話かけて一緒に遊んだりしていました。

しかし、両親が離婚してから生きる気力を失ってしまい、自分の殻に閉じこもるようになってしまいました。

 

そして、今までの友達にも声をかけることができなくなってきてしまいました。

いつの間にか、友達に声をかけられようとしている自分になっていました。

 

自然とそうなっていました。自分から声をかけるのがこわくなってしまいました。嫌われるのがこわくなってきてしまいました。

 

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毒親の老後の面倒なんて見たくないです。本当は


毒親である母親は私にずっと面倒を見てもらおうと考えているようです。

私はうつ病で障害年金をもらっています。母親はおかしなことをいうのです。

 

「その障害年金は二人分でしょ?」と何度も聞いてくるのです。

私は「うつ病で病気なのは私だけなのだから、母親の分が出ているわけないでしょ」ということをいうのですが、どうも母親は理解してくれません。

 

母親は、ほとんど働いてこなかったので、年金が少ないです。

一人暮らししてもやっていけない金額です。

 

私は20代から毒親に仕打ちを受けながらもコツコツと働いてきました。

そして、40代になってから、うつ病、アスペルガー症候群になりました。

 

こんな状態で母親の老後の面倒を見たくないですし、見れないです。

老人ホームの施設にいってほしいところですが、お金がないです。

 

本当は、母親の老後まで面倒みたくないです。

ですが、同居をし続けていったら、必然的に面倒を見ないといけなくなります。

 

ただ、私はうつ病なので、食事する気力、掃除する気力、洗濯する気力がないので、母親の面倒を見ようにも見れないと思います。毒親によって、うつ病になりました。毒親にとって因果応報でしょう。

 

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私の毒親の過干渉は過剰です。「ああしなさい」「こうしなさい」と命令してくるのです。

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友達の話をすると「ああしなさい」「こうしなさい」。会社であったことを話すると「ああしなさい」「こうしなさい」とひたすら命令です。

 

私としては、ただ、親に話を聞いてほしいだけなのに、いちいち干渉してくるのです。過剰な干渉をしてくるのは過干渉だと思います。

 

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毒親とはどうやって距離を保てばいい? 子ども側からの適切な親子関係の築き方


毒親との距離の保ち方は難しいです。

一番簡単なのは物理的に一人暮らしするか、会社の寮生活をすることです。

 

子どもから適切な親子関係を築こうとしたら非常に時間がかかりますし、毒親それぞれの特製があるので、こうしたらいいという答えはありません。

 

私の経験上、毒親との距離のとり方は、ちょっと不機嫌目に、ずっとすごしています。

 

そうすることで、毒親は、気をつかってきます。私は家庭内に置いては常に不機嫌にしています。

そうすることで距離を保っている感じです。非常にストレスです。

 

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支配型の母親から逃げられない子ども


毒親に支配されていました。徹底的に。私が小学生の時に両親は離婚しました。

 

父親は浮気相手と再婚するために出ていきました。私は一人っ子です。

 

母親との二人暮らしが始まりました。母親は私を支配してきます。

「ああしなさい」「こうしなさい」と命令ばかりです。

 

私は学校での出来事をただ話を聞いてほしいだけなのに、命令してくるのです。

 

私は母親に話を聞いてもらうことをだんだんあきらめるようになりました。話を聞いてもらっても命令ばかりされるのがツラかったです。

 

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自覚のない毒親が、子どもへ浴びせている言葉の数々


「早くお風呂に入りなさい」
「いそがず、ゆっくり食べなさい」
「早く洗濯するもの出して」

 

一見して当たり前のことだと思います。

 

しかし、成人すぎてもいまだにこのようなことを言われるのです。

まして、私は40代です。子どもの頃から、変わらずに、この言葉を言われ続けています。

 

もう、いい加減にしてほしい。成人すぎた大人なんですけど。

 

って言いたいのですが、結局、母親、子どもと言う構造が変わらないので、いつまで経っても子ども扱いされてしまうのです。20代の頃は、毎回言っていました。「もう、放っておいてほしい」と言いましたが、母親は、その言葉を何とも思っていないのかロボットのように同じことをひたすら言ってきます。

 

もう、つかれたので、私は母親に対して何も言わなくなりました。

 

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両親が小学生時代に離婚した


小学生時代に両親が離婚しました。父親は浮気相手と再婚しました。

私は一人っ子なので、母親と二人暮らしになりました。

 

母親と二人暮らしになってから、一気に家の中が暗い雰囲気に立ち込められるようになりました。

 

父親、母親、私と三人暮らしの時は、明るい家庭だったのに、父親がいなくなってから、一気に雰囲気が暗くなりました。気持ちも暗くなってきました。何もかもやる気をなくしてきてしまいました。

 

生きる気力も失いました。成績も急降下しました。勉強のやる気がなくなりました。

それを心配した祖父母が家庭教師をつけてくれました。

 

しかし、家庭教師からは、「この子に何を教えても知識が頭に入らない」と母親に言って私を突き放したそうです。また、父親がいなくなったさみしさから、壁に何度も頭をぶつけて死にたい!!と言って、ひたすら壁に頭をぶつけていました。覚えています。

 

もう、さみしくて仕方ありませんでした。夜中のテレビゲームばかりにのめりこんでいました。

学校生活も成績が悪いことを理由にいじめにあっていました。

 

高校の進学時は成績が悪くて普通高校に行けないと言われて、専門学校を薦められました。その後、専門学校で日商簿記2級の資格を取ることになりました。

 

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まとめ

私の小学生時代に両親が離婚しました。父親は浮気相手と再婚するために出ていきました。

私は一人っ子なので、母親と二人暮らしです。

 

今まで生きてきて母親に物事を理解されることないまま、母親の操られるままに生きてきました。

その半生について書いてきました。母親に理解されないで生き続けるのは、とてつもなくツライです。

 

早く自立したいのですが、もう手遅れです。

うつ病、アスペルガー症候群になってしまい、精神内科の先生からは労務不能と診断されているからです。

 

母親が死ぬまで母親と二人暮らしが続くかと考えるとゾッとしてしまいます。

一人暮らしするにも、食事、掃除、洗濯が出来ないので、どうしようもありません。

 

このまま母親に理解されないまま、半生を終えました。残りの半生も恋愛することなく、結婚することなく人生を閉じてしまうように感じます。一旦、毒親に理解されずに生きることになったら、もう人生おしまいです。

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この記事を書いた人

岡星 陽士

うつ病、自己破産者、40代、無職、彼女いない歴20年、独身、未婚ブロガー

岡星 陽士

岡星 陽士(おかぼし はると)と申します。現在、40代、うつ病、自己破産者、無職、彼女いない歴20年、独身、未婚のブログを書く人です。メンヘラの母親と同居しています。自分の今までの人生を書いていこうと思います。

詳しいプロフィール

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岡星 陽士

うつ病、自己破産者、40代、無職、彼女いない歴20年、独身、未婚ブロガー

岡星 陽士

岡星 陽士(おかぼし はると)と申します。現在、40代、うつ病、自己破産者、無職、彼女いない歴20年、独身、未婚のブログを書く人です。メンヘラの母親と同居しています。自分の今までの人生を書いていこうと思います。

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